公開日:2015年10月20日

患者さんを看取ったときにあなたならどう対応しますか

今朝も在宅の患者さんの看取りから一日が始まりました。家族も患者さんの穏やかな表情を見て病院ではなくて連れて帰ってきてよかった、とおっしゃっておられました。

患者さんを看取ったときはできるだけ介護者の方に「ご苦労でしたね」「頑張ったね」「できることをやってあげたね」と声をかけるようにしています。また本人にも同じような言い回しで言葉をかけています。泣いているご家族もいるし笑いながら全員で最後を迎える患者さん家族もいるしそれぞれです。ターミナルケアやグリーフケアの場面でどう患者さんや家族に対応するのかはその医師、医療者によって違いますが、今後在宅医療が普及するにつれて医師のみでなく薬剤師さんや訪問看護師、はたまたケアマネさんや介護士さんも絶対対応しなければいけない場面がでてくると思います。下記のm3の高宮先生の記事は、ゆっくりと穏やかに死に向かう患者さんにどう対応するのか、はたまたそのような患者さんに接する医療者は日々どう考えすごすべきなのか、スピリチャルケアをどう考えるのか、大変参考になると思うので皆さんも読んでみてください。それでは自分は病院へのカンファレンスに参加してきます。

m3.comより

緩和ケアにおいて薬剤師さんに望むこと https://www.m3.com/news/iryoishin/367493

 

緩和ケアは早期からのアプローチも強調されていますが、どうしても避けて通ることが出来ない臨終時、死への対応も重要です。患者さんの死を目の前にすると、私たちの心も乱れます。私たちの死生観も問われているのです。大学の講義で学生に「人間の死亡率は?」と尋ねると皆一様に答えに窮します。そこで「100%です」と伝えると「なーんだ」と納得した顔をするのですが、「死」について普段私たちがどれだけ意識していないかよく分かります。今回は、患者さんが遺した手紙や日記を通じ、薬剤師として、人として、自分自身の死生観を振り返るきっかけにしていただければと思います。

死を目前にした患者さんから、死と向き合うことの大切さを教わった

 北京オリンピックに出場するはずだったバレーボール選手、横山友美佳さんをご存じでしょうか。現在、活躍している木村沙織さんは同じ高校の親友。1987年生まれの横山さんは春高バレーのヒロインでもあり、18歳を迎えた年に日本代表に選出されました。しかし同年、横紋筋肉腫が判明し、抗がん剤治療を開始したのです。そんな彼女は生前、こんな言葉を残しています。
「病気になって一番考えたことはやはり命の尊さです。今の世の中、自ら命を捨てる事件がたくさん起きています。命を捨てるくらいなら私に下さい」
「歩くこと、話すこと、見ること、聞こえること、喜ぶこと、悲しむこと、そして生きること。当然のように出来ている人間は何とも思わないけれど、これらは当たり前のことなんかじゃない。皆さんのたった一つの尊い命を大切にして下さい。今という瞬間を大事にして下さい」
横山さんは21歳という若さで永眠されました。

同年代の女性で、忘れられない患者さんがもう一人います。原発不明がんで、肺転移と全身の骨転移のため、疼痛と呼吸困難がありました。私は緩和ケアの医師として毎日彼女の病室を訪れていましたが、彼女の母親からあまり悪い話はしないでほしいと頼まれ、生前、予後や死について語ることはありませんでした。しかし、彼女が亡くなった後、遺品の中から母親宛ての手紙が見つかりました。

 「21年間、大変お世話になりました。ことにこの1年は心配ばかりさせてしまって申し訳なく思っています。親よりも先に逝くなんて最後まで親不孝な娘でした。でも、あまり泣かないでください。やっと病気の苦しみから解放されて、私は楽になれるのですから。悲しんでばかりいないでください。逆に私は安心して旅立つことができません。それから私が居なくなったからといって、いつまでも家にふさぎこんでいてはダメだよ。まだ44歳。これからなのですから。いつも勝気な人でいてください。自分の幸せを自分でつかむこと。無駄なお金も時間もつかわないように。これからもしっかりと生きていってください。もう、うるさい娘は口出しできないんだから、自分の足で歩いていってください。
最後にお母さんの娘に生まれてよかったです。ありがとうございました」

この手紙を読んで、何度もベッドサイドに行きながら本音の話ができなかったことを私は後悔しました。ただ、実は患者さんは皆、死を分かっているのではないか、と感じたのです。死を目前にした患者さんを安易に励ますのではなく、死と向き合うことの大切さを改めて教えられました。

大切なのは、残された時間よりもその時間をどう過ごすか

 次にご紹介するのは西田英史君。彼は高校3年生で脳の悪性腫瘍になりました。彼は日記に次のように記しています。

死をみつめる
今日も非常に強い無力感にとらわれた。
もう少し、自分の死について考えてみる必要がありそうだ。
明日死ぬのだとしたら、今日なにをやるか?
3日残っているとしたら、何をする?
1週間あるなら?
半年あるなら?
1年以上あるなら?」
生きる意味とは
普通の生活をしていて死ぬならそれでも結構だ。
大事なのは、今、何ができるかということではないか。
今やりたいこと、なんだろう。
俺が今できるもの。癌と闘いつつ、明日を信じて勉強すること。
俺にとって満足いく生活だった、と言えるようになること。
一日一日を精一杯生きるという生き方に巡り合えたこと」

こう言って受験勉強を続けていましたが、病状が悪化し、大学は受験できませんでした。しかし、今日をどう生き抜いたかということ、それが彼の生きた証だったのではと思います。

私たち緩和ケアの医師は、患者さんから「どのくらい生きられますか?」とよく聞かれます。どう答えるべきかいつも迷うのですが、希望を支えながら伝えたいと思っています。ですから、「年単位ではなく月単位で考えた方がいいですよ」「やりたいことがあったら先延ばしにしないで」「会いたい方があったら会っておく」と、後悔しないように予後を生きられるように話します。
そう伝えながら、私たちも予後が決まっているということにハッとします。健康であるとつい漫然と生きてしまうのですが、患者さんからは、残された時間をどのように過ごすか、その生き方を教わることも多いのです。

死=無になることではない。思い出の中で人は生きる

 肺がんを患った60代の男性からは「心のケア、家族のケアをしてほしい」と言われていました。病状が悪化して寝たきりになった彼は、家族に見守られながら「妻や娘・孫を残していくのは忍びない。先生、死んだらどうなりますか?」と私に聞きました。
私はその問いに対し、「私は無宗教ですが、肉体が消えたらすべて無になる、とは思っていません。命や魂とも説明しにくいのですが、亡くなった患者さんはどこかで見守ってくれていると信じています」と答えました。彼は「そう信じたい。自分が亡くなったあとも、妻や娘、孫をずっと見守る存在でいたい」と静かに語りました。当時、彼はいつもヘッドホンで音楽を聞いていました。曲は「アメージング・グレース」。今でも私はこの曲を聞くと彼の表情やエピソードを思い出します。人は亡くなっても、思い出の中で生き続けるのかもしれません。

最後に個人的な話ですが、私が医学部3年生の時に、父が急死しました。心筋梗塞でした。今でも私は机に父の写真を置いており、毎日挨拶をします。人生における大きな決断があるときは必ず報告をします。当然、声は聞こえませんが、見守ってくれているという確信があります。それは仏様や神様なのかもしれませんが、私にとっては亡くなった父がその窓口になっているのです。

今後、皆さんも病院や薬局、在宅で患者さんと接する中で、多くの出会いと別れを経験すると思います。また、家族との別れもあるでしょうし、皆さん自身もいつか死を経験するのです。薬剤師として、また一人の人間として生と死をどう考えるか。正解はないと思いますが、死が「無」や「永遠の別れ」だとしたら、この仕事を続けていくのは辛いことかもしれません。
これは、あそかビハーラ病院の僧侶が私に言った言葉です。
私が無駄に過ごした今日は、昨日亡くなった人が痛切に生きたいと願った今日である。
かけがえのない毎日を、大切に過ごすことを心に銘記したいと思います。

<参考文献>
『明日もまた生きていこう』(横山友美佳著・マガジンハウス)
『ではまた明日』(西田英史著・草思社)

※本記事は、エムスリーグループが運営する薬剤師向け情報サイト『薬キャリPlus』で、2015年5月26日に掲載したものです。

専門家プロフィール/高宮 有介(たかみや ゆうすけ)

昭和大学医学部 医学教育推進室
1992年 昭和大学医学部卒業、英国ホスピスで研修後、昭和大学院緩和ケアチーム、昭和大学横浜市北部病院緩和ケア病棟の専従後、2007年より現職
【学会役員】
大学病院の緩和ケアを考える会 代表世話人、
日本緩和医療学会 理事、第20回日本緩和医療学会学術大会 大会長