フランスにおける延命治療の中止の議論について、あなたはどう考えますか?
こんにちは、札幌のかかりつけ医@今井です。
在宅緩和ケアの現場で日々黙々と仕事をしていることが多いです。その中でも持続鎮静の問題であったり医療処置をどこまですべきか、というような問題は都度本人とご家族と時間をとって会話し決定していっているのが現状です。
できる限り患者さん個人や家族の方が何を医療に求めているのかをお聞きして、できる限り意思尊重をして在宅療養のお手伝いを医師、看護師ともに行っています。
さて終末期医療についてフランスで大きな議論になっている問題があるようです。この問題については社会が死を、尊厳死や安楽死をどのように考えるか?という点において現状の日本でもとても参考になる議論だと考えます。この問題、あなたはどう考えますか?
引用させて頂きますので興味のある方は是非全文お読みください。
医学書院さんより
尊厳死とアドバンス・ケア・プランニングをめぐるフランスでの国民的論争から
奥田 七峰子(日本医師会総合政策研究機構フランス駐在研究員/医療通訳)
2019年5月13日,仏国ランス大学病院に入院中のヴァンサン・ランベール氏(42歳)の医師団は,氏への延命治療(水分と栄養)の中止と「深い鎮静」の開始を発表した。
2008年の交通事故から十年以上植物状態ではありながらも脳死ではなく,目も開き反応もある氏に対する延命治療継続を求める両親側と,治療の中止を求める妻側の間で法定内外で争いが続けられてきた。
実は,この十年の間に,既に2回延命治療停止が法廷で決定されている(行政裁判の最高裁に当たる国務院,欧州人権裁判所)。この決定を不服としたランベール氏の両親とその支援団体は,国連障害者人権擁護委員会に提訴。国連による仏国への介入に最後の望みを託した。
国連の決定を待たず開始された,冒頭で紹介した治療中止と「深い鎮静」に対して,両親は各メディアを通して病床の氏の姿を動画配信。両親から介入を求められたマクロン大統領は,医師団の決定に従うと表明した。治療中止が開始されたまさにその夜,パリ控訴院が,国連の決定を待つ間の延命治療継続を命令。折しも,同時期に開催された欧州議員選挙の候補者ディベートで取り扱われる等のタイミングも重なり,仏国は国全体を挙げての“人生会議”となった。
最終的には,6月28日仏最高裁の治療中止の決定を受け,7月2日より治療中止・深い鎮静の開始。9日後の7月11日,ランベール氏は亡くなった。
日本の皆さんは,「なぜ国民総出でそこまで議論するのか?」と思うかもしれない。デカルトにサルトル。仏国人は,社会問題を哲学することが大好きな国民である。高校卒業時のバカロレア大学入学資格試験では全員,哲学が必修の国である。高校以上の教育を受けた人たち,いやそれ以外の人も, 死生観に大いに興味をそそられる2週間となった。
現地の市民,医療者はどう考えた?
医療者だけでなく広く仏国人の考えを聞きたく,人と会うたびに今回のランベール氏の件とアドバンス・ケア・プランニングについての意見を聞くようにしてみた。興味深かったのは,非医療者ほど,「無駄な治療」や「医療費の無駄使い」「いくら国民の負担になると思うのか」と医療経済的な視点で話したことだ。こうした発言は,かなりの本音トークになっても,医療者からは見事に一切聞かれなかった。恐らく,彼らの職業倫理や受けた教育がそれを許さなかったのであろう。
一方医療者に多かったのは,「延命治療を続けたいのは私たち医師だと言われるが,現場では家族から求められるケースが多い。彼らは延命治療を受ける権利を主張する」との発言である。
ランベール氏の両親が属する保守的カトリック(中絶やLGBTの権利にも反対の立場を取る人が多い)に対する批判も多く聞かれた。とはいえ信仰の自由は保障されているため表立っての批判は難しく,日本で報道されることはなかったのだろう。実は,この部分がランベール裁判の真の争点である。
しかしながら医療者・非医療者とも,異口同音に「これが90歳くらいの高齢者だったら,逝かせてあげたい」と言う。高齢者に対する積極医療中止には,社会全体で合意形成ができているようであった。
持続的な深い鎮静は苦痛緩和か,それとも安楽死か
ここで,仏国における緩和ケアを取り巻く動静について振り返りたい。1990年1月,仏国内初の緩和ケア・終末期ケアをサポートする仏国緩和ケア学会SFAP(Société Française d’Accompagnement et de Soins Palliatifs)が有志の医師らを中心に設立された。2010年には国立終末期観察局(Observatoire National de la Fin de Vie)が設立され,これを継ぐ形で2016年1月,国立終末期緩和ケア・センター(Centre national des soins palliatifs et de la fin de vie;CNSPFV)が創られ,本部がパリ市内に置かれた。
CNSPFVは「Parlons la fin de Vie(話し合いませんか? 私たちのエンド・オブ・ライフ)」と題したキャンペーンを全国津々浦々繰り広げ,勉強会・ディベートを通してアドバンス・ケア・プランニングの必要性について,国民に向けて啓発活動を広げた。この30年間を振り返ると,最初は緩和ケア病床の圧倒的な不足から受皿数を増やす量的支援活動が進んだ。その後,現在はむしろ質的支援が活動の中心となってきたように見受けられる。
この間,重要な法律がいくつか制定された。例えば「情報開示・カルテ閲覧権」「インフォームド・コンセント」に代表される患者権利法が1995年に制定された。以降,生命倫理法の一部として,自身も医師であるジャン・レオネッティ議員の名が付いた終末期緩和ケア法のレオネッティ法が2005年4月に制定された。レオネッティ法のように議員名を冠した立法は他にもある。臓器移植のカヤベ法,患者の疼痛コントロールへのアクセス権利のクシュネール法など,医療議員としての偉業を残した,金字塔になるのであろうか……。
レオネッティ法は,倫理や哲学・人生観・そして世論は変化・進化し続ける点を考慮し,5年ごとに各項を見直すことが,制定当初から定められた。
その2回目の見直しの際に,いわゆる「死亡まで継続させる持続的な深い鎮静(continuous deep sedation until death)」が認められた(2016年2月2日法)。5年ごとの改定スケジュール通りとは言え,本法改定に至った背景としては,やはり,政治的タイミング(仏大統領選)も重要であったように思われる。安楽死を要求する団体に向けて,国家としてのより明確な回答を各候補者は公約でアピールする。
オランド大統領(当時)を中心とする政治の世界(医学界の外)の声では,あたかも安楽死を要求する団体に向けた代替回答としての「持続的深い鎮静」とも解釈された。しかしながら,医学界での解釈は少しニュアンスが異なった。研究者・政策者と現場との間でも温度差があった。
仏保健省や中央の政策者・行政者サイドから聞こえてくる声は,「死に至る高い可能性を視野に入れた」深い鎮静を容認するメッセージである。一方,緩和ケアの現場では「しっかりと苦痛を和らげるための継続的な深い鎮静」が(結果として)「覚醒せずに死亡まで続く」ととらえたのであった。鎮静は苦痛を緩和するために行うのであって,死亡まで眠らせることを最初から明確に意図するものではない,というのが緩和ケアでの通常の考え方である。結果としては同じでも優先順位,意図が異なる。「苦痛」には,身体的苦痛のみならず,精神的・社会的苦痛,自己の尊厳毀損も含まれる,と仏当局高等保健機構(Haute Autorité de Santé)のグッドプラクティス・リコメンデーションには明記されている。
一方現場でも郊外の地方によっては,「そんな言葉は理論であり実践は無理。(違法である)安楽死を認めたと遺族に解釈されてしまう」との声すらある。
さらに,同じ法の下に,地方差,社会的背景差,人種や宗教・文化の差がある。すなわち,解釈と臨床実践には法制化だけでは定めきれない玉虫色の部分がある。国が日本であれ仏国であれ,人が生きる上では避けられない差異ではなかろうか。むしろ全員一致での正解があるほうが危険であり,それ故に,ランベール氏の件も国民総出での“人生会議”となったのであろう。
現場で見えた市民の感情と法の乖離
2005年に最初のレオネッティ法ができてからは,どんな軽症で入院しても,「意思表明ができなくなった場合に最も信頼できる(=治療決定権を委ねられる)人物」の記載が必ず求められるようになった。事前指示書の有無も記載する(「書け」とまでは,まだ求められていない)。
さて,甚だ恐縮ながら,仏国在住医療通訳歴20余年の私が自らの経験をお話しすることをお許しいただきたい。
ある患者A氏への深い鎮静の導入に通訳として同席した際,レオネッティ法が定める「患者本人が意思表明不可能な場合に決定権を委ねられる最も信頼できる人物」に対して,定型通りの(=法に合致した)説明を済ませた。その後A氏は,実に10日以内で旅立たれた。あまりのスピード展開に,残された人の頭の中が混迷したことは想像に難くない。私自身も通訳としてのジレンマを感じた。制度としていくら素晴らしいものを作っても,現場でのスピード感や,当事者の心理に与えられる貢献は,これほどささいなものかと。
そしてその瞬間に,法で想定した患者層と現場における患者層に若干の隔たりを感じたのである。法案で想定する患者層は,合併症を持つターミナルの90歳くらいの高齢者か,あるいは学歴・社会的地位も比較的高い「理路整然と死を受け止められるような」都市部のホワイトカラー(すなわち政策決定者の属する階層)で,そうでない患者層にとって治療中止は,法制化前となんら変わりない受け入れ難い決定ではないかと。アドバンス・ケア・プランニングと言って普段から話し合って意思を書面化する一般人は,多数派ではないだろう。
国民性を踏まえた議論を
今回のランベール氏のケースは,宗教・政治的思想,価値観,死生観が同じ家族の中でも分かれたが故に起きた悲劇で,正解・不正解もなければ互いがわかり合うこともない。SFAPは,「複雑な家族関係が絡んだ特異なケースで,本件で既存の法律が変わることはない」とコメントしたが,このような事例は今後も十分起こり得るように私には思える。延命中止について家族の間で意見が分かれることなど,洋の東西を問わず,よくあることだからだ。
仏国では,無痛分娩が標準の出産で,深い鎮静をもってその人生に幕を引くことができる。おぎゃあと生まれた瞬間から最期まで,医療の力を借りてでも苦痛を回避し,できる限り痛みをコントロールしたい気持ちが強い。日本人に見られる「耐えることの美学」のような考えもない。
そして,自己の存在と尊厳をことのほか大切なことと考え,生涯にわたって哲学する。それだからこそ,仏国では脳死(思考の死)がその人の死を意味し,脳死した肉体の臓器は当人には属さない。これが臓器提供推定同意を法律で可能とする背景であろう。
一方で,少なからずの日本人は,産みの苦しみに耐えてこそ母親の愛情が芽生えると言い,硬膜外麻酔を使っての無痛分娩は利益よりもリスクが強調される傾向にある。自己の意見や考えを後回しにしてでも他人を思いやることを良しとし,滅私奉公が美徳とされた。そうした社会で生きるのに大切な規則や法律は「お上(すなわち政府・権威・学会)」が作り,それに従うほうがしっくりくる(きていた)のかもしれない。
ある国の医療制度を理解する上では,このように国民性や文化の特質を理解することが必要不可欠に思える。どちらが良い悪いではない。医療制度比較は,比較文化人類学なのである。
統計データの数字はもちろん有用ではあるが,数値だけでは意味をなさない。健康診断の検査値を見て,日頃の運動不足や食習慣を考えないのと同じである。生活習慣や背景にある家族・職場・環境,さらにその人の歴史をじっくり見てこそ,体全体がわかってくる。仏国医療の統計データの数字や法律・制度の裏側にあるものは何なのか,「医療が哲学する」こちらの現場から検証し,これからも報告していきたい。
◆アドバンス・ケア・プランニングや尊厳死と持続的深い鎮静の遠そうで近い関係
森田 達也氏(聖隷三方原病院副院長/緩和支持治療科部長) 「仏国で持続的な深い鎮静が(尊厳死・安楽死の文脈で)法律で認められて話題になっているらしい」との状況を筆者が最初に意識したのは,学術誌で「仏国の鎮静はちょっと違う」という論調を見るようになってからだ。 例えば,ベルギーの倫理専門家は,2016年に「仏国の持続鎮静法は,苦痛が軽度でも,死亡がそう差し迫っているわけでなくても,少しの苦痛も避けたい患者が,死亡まで継続して昏睡になることを(社会として)試しており,従来の緩和ケアにおける鎮静とは異なる医療行為だと考えるほうが良い」との見解を示した1)。日本でよく知られるRトワイクロス氏は,2019年に書いた鎮静に関する総説で,「仏国の状況は(従来の緩和ケアの鎮静とは)異なり,独特で新しいことに挑んでいる」と書いている2)。 これまで,緩和ケア領域における鎮静とは,「死亡直前期の,他に緩和する方法がない苦痛に対する最終手段(last resort)として,苦痛の緩和に必要なだけの意識の低下をもたらす治療」と位置付けられてきた3, 4)。「死亡まで継続する」ことを意図するものではないし,完全に意識をなくすのではなく,苦痛が取れるだけの最小限の鎮静薬を使うことがガイドラインでも強調されている。 仏国では,このような伝統的な鎮静の概念を問い直している。トワイクロス氏の言葉を借りると,仏国における鎮静は①治療抵抗性の苦痛だけではなく全ての苦痛を避けるために実施可能である,②相応の鎮静ではなく,ぐっすり眠れるような鎮静を求めることが多くなりそうである,③患者のあらかじめの意思表示で(実施時に意思決定能力がなくても)適用可能である,④(今回の事例に見られるように)生命維持治療を中止するときにも実施できる点が特異である2)。仏国のこの試みは社会にどのような影響をもたらしていくであろうか,10年,20年を見ていく必要がある。 現在日本では,アドバンス・ケア・プランニングや尊厳死の文脈では,治療の中止・差し控えが中心に語られる。しかし治療を中止・差し控えることそれだけで,苦痛が完全になくなるわけではない(ときもある)。苦痛緩和のために何が必要かという視点が明確になってくれば,鎮静をめぐる議論がより活発になるに違いない。そしてそれは,鎮静を苦痛緩和の最終手段としての役割にとどめるか,患者が自分の望む死を達成するための手段と見なすかの議論に集約されるはずである。つまり,患者自身は持続的な深い鎮静を(どういう状況なら)希望できるのか? という課題になる。 苦痛緩和の最終手段という論点は医学的な議論であるが,死ぬ権利の議論は「どこまでを社会が認めるべきか」という社会的問題である。各国の状況は歴史的経緯や文化・価値観を踏まえなければ正しく理解することはできない。わが国ではどうするのかを自分たちの足元から議論する必要がある。 参照文献 |
はたしてここまでの国をあげての議論は日本では可能でしょうか?2025年~その先の40年、60年を考えていくと、日本社会が尊厳死や安楽死、持続鎮静や終末期医療について、答えはすぐにはでなくても継続して議論していく土壌が必要だと自分は考えますが皆さんはどう考えますか?よければご意見くださいね。
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