公開日:2019年02月22日

看取りの家は地域にはいらないのか?皆さんはどう考えますか?

こんにちは、札幌の在宅医&かかりつけ医@今井です。

 

先ほど流れてきたニュースで少し気になる記事がありましたので紹介します。一在宅医療者としては少し気になる内容です。

タイトルとともに内容についてもご紹介させて頂きます。

余命短い患者の「看取りの家」 計画に住民反対「死を日常的に見たくない」 神戸

望ましい最期の場所を余命の短い患者らに提供する施設「看取(みと)りの家」が神戸市須磨区で計画されていることに対し、近隣住民らが反対運動を展開している。事業者側は、病院や高齢者施設への受け入れを拒まれたり、在宅療養が難しかったりする患者の「受け皿」を目指すが、住民側は「亡くなった人が出ていくのを見たくない」「落ち着いて生活できない」など、死を前提とする計画に拒否感を示す。高齢化の進行で「多死社会」が迫る中、平穏な最期を描くのは容易ではない。(貝原加奈)

事業者は空き家の一軒家を施設用に購入し、昨年9月に株式会社を設立。「看取りの家」の運営を主な事業内容とする。事業者によると、余命宣告を受けた患者5人程度とその家族を受け入れ、利用者の希望に沿った介護や看護を実費で提供する計画という。

施設は、1970年代に入居が始まった須磨ニュータウンの一角にある。少子高齢化の進行で周辺では空き家が増加している。

昨年10月、事業者が自治会関係者に事業概要を文書で伝えたところ、自治会側が反対の意思を表明。詳しい説明を求める住民と事業者がもみ合いになり、警察が出動したこともあった。自治会側は「看取りの家はいらない」「断固反対」と記したチラシを住民に配布し、各戸の外壁に張り出した。その後、事業者側が住民説明会を申し入れたが、自治会側は拒否している。

反対理由について、住民の60代女性は「日常的に死を目にするのはつらい。車の出入りで騒がしくもなるだろう」と話す。別の60代女性は「人員体制が分からない。本当に利用者に寄り添ったケアができるのか」と疑問を投げ掛ける。

これに対し、事業者の30代男性は「病気が進行して治療を望まない人や、家族と最期を迎えたい人の受け皿が必要」と強調する。

男性は、介護老人保健施設などでの勤務経験があり、介護保険制度の制約から理想的なみとりが難しい現状を痛感したという。ただ反対運動は「想定外だった」とし、「引き続き住民の理解を呼び掛ける」と話す。

■迫る多死社会「受け皿」需要多く

余命の限られた高齢者を受け入れる小規模施設としては、「ホームホスピス」が全国で広がっている。利用者が住居をシェアし、事業者から介護と看護の提供を受ける仕組みは「看取りの家」と似ているが、「全国ホームホスピス協会」(宮崎県)は「みとりが目的ではなく、その人らしい日常を送るための場所」と違いを強調する。

同協会によると、ホームホスピスは18年12月時点で全国で54軒、兵庫県内では都道府県別最多の12軒が運営されている。16年の同時点と比べ、全国では2倍になった。

増加の背景には、人生の最終盤を過ごす「受け皿」を見いだしにくい現状がある。需要は多い一方、「最期」のイメージを持たれ反対運動が起きやすい▽経営環境が厳しい-などの課題があるという。

同協会は、看取りの家への反対運動について「名称の影響で、最期だけが強調されて伝わったのではないか。サービスの質をどう確保するかが重要」とする。(貝原加奈)

■死を自分の問題と考えて

【死生学に詳しい関西学院大人間福祉学部、藤井美和教授の話】 反対運動の背景には、元気に生きることだけを大切にして、老いや病気を遠ざける価値観の広がりがあるのではないか。病院や施設で亡くなる人が増えたことで、死は見えないもの、怖いものに変わった。突然日常に戻ってくると、受け入れ難く感じるのだろう。核家族が移り住んで始まり、死が身近になかったニュータウンという町の特性もある。一方で、どう人生を締めくくるかは生きている間の最大の仕事。死を自分の問題として考えてほしい。

 

 

うーん、個人的には似たような事業を考えていたこともあるのでこの反応は予想外ですが・・・・詳細は知らないのでわからないのですが、一般論として考えるとこのような結果となってしまったのにはやはり幾つかの要因があるのかと思います。

一つ目は事業者の問題。

まず「看取りの家」というのはそもそも看取り自体を目的とした家をつくること自体がおかしいですね。自分は地域社会の中での看取り自体は全く否定しませんし、むしろこれからの地域包括ケアの時代では避けられないことだと確信していますが、だからと言って「看取りの家」と名付けた施設が必要だとは100%思いません。

看取りはあくまで充実した生の延長線上にあるもの・・・・・既存の施設で看取りができないのが歯がゆいからと言ってそれを目的とした施設をつくることは、そうした方が集患なり集客なり会社経営上有利とするための戦略なの?と勘ぐってしまいます。

看取りに注力するために一番しなければいけない事・・・それはあくまでもより良い暮らし、行ってみれば人生を追求することが基盤にあってのことかと思います。

なので自分がこのような施設をつくるのであれば絶対「看取りの家」なんて名前はつけないですし、事業理念としても穏やかな看取りを目指す、なーんてこと言葉は絶対いれないで「飽くまでも100%充実した人生を過ごせるように介護や医療を提供することが一義で、その結果が良質な在宅での看取りとなることを目指す」とすればいいかと思います。

事業者の理念とその伝え方、これが住民にしっかりと伝わっていないのではないかと思われますがいかがでしょうか?

 

そして二つ目は住民の死に対する認識の問題。

「死」=「忌み嫌うもの」という意識をもつことは日本人なら宗教的に、伝統的に精神の根底にあることは否定はしませんが、死について考えること、向き合うことまで捨て去るということはもう地域社会としてもできない時代にきていると思います。

逆説的ですがより良い生を謳歌するためには、より良い死とはなんなのか?ということを考えることからスタートすることが必要ですよね。(逆もまたしかりですが)

この住民の反対意見は地域包括ケアの時代が進む中では他の地域でもどんどんでてくる可能性はありますが、各事業者に任せるのではなく行政や医師会、宗教界などが主体となってきちんと死と向き合うための土壌を構築すべきですね。

 

個人的には外来でお会いする高齢者のほとんどの方が、自分の死を考えることについては否定的ではないんじゃないかなという印象を受けています。むしろ受け止められないのは家族の方のほうでしょうか?

そろそろ死について、世代を超えて、職種や立場を越えて議論する時代がきていると考えますがいかがでしょうか?札幌ではどのような議論になるでしょうかね???

 

皆さんの地域ではいかがですか?よければ教えてくださいね。

 

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